経験は知識を超越する

この世にはキング・オブ・スゴ本というのがある。
スゴ本とは凄い本のことだ。

東大教官が新入生にすすめる100冊の中で毎年1位を独走し続ける本がある。「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」の著者Dain氏も絶賛しているように、それはカラマーゾフの兄弟である。大学生は就職活動のためにTOEIC対策をするのも大事だが、カラマーゾフを読んで人間とは何かについて考えてみるのもいいはずだ。いきなりブラック企業に入ってしまった人間は考える時間すらない。考えながらいろいろと経験をし、自分なりの意見を持つのが大事である。その上で本を参考資料として捉えるのである。
「この世に神はいるのか、いないのか」というsensitiveな話題については学習塾のblogなので割愛するが、カラ兄では「いない」と信じて疑わない知的な人間がそう主張したことで様々な形でしっぺ返しがくるシーンがある。ドストエフスキーは怖い。その怖さが青年にシニカルなモノの見方を与えてしまうこともある。「読書だけ」「経験だけ」というのはバランスが悪い。「読書と経験」の両方が大事なのだ。

最近ノーベル文学賞候補に名前が上がってたと判明した三島由紀夫の、おそらくカラマーゾフの兄弟について指してる思われる記述が「若きサムライのために」の中で見られるので紹介する。作家は頭の中だけで物事を考えてしまう傾向があるので警鐘を鳴らしているのである。

「文学に生きる目的を見つけようとする人は、この現実世界の中で何かしら不満を持っている人である。そして現実世界の不満を現実生活で解決せずに、もっと別世界に求めて、そこで解決の見込みがつくのではないかと思って、生きる目的やあるいはモラルを文学の中に探そうとするのである。しかも、それにうまくこたえてくれる文学は二流品に決まっていて、青年はこの二流品におかされているうちは罪もまだ軽いし害も少ない。作家の名は指さされないけれども、そういう文学はどんな時代にも用意されている。しかし、ほんとうの文学とはこういうものではない。私が文弱の徒に最も警戒を与えたいと思うのは、ほんとうの文学の与える危険である。ほんとうの文学は、人間というものがいかにおそろしい宿命に満ちたものであるかを、何ら歯に衣着せずにズバズバと見せてくれる。しかしそれを遊園地のお化け屋敷の見せもののように、人をおどかすおそろしいトリックで教えるのではなしに、世にも美しい文章や、心をとろかすような魅惑に満ちた描写を通して、この人生には何もなく人間性の底には救いがたい悪がひそんでいることを教えてくれるのである。そして文学はよいものであればあるほど人間は救われないということを丹念にしつこく教えてくれるのである。そして、もしその中に人生の目標を求めようとすれば、もう一つ先には宗教があるに違いないのに、その宗教の領域まで橋渡しをしてくれないで、一番おそろしい崖っぷちへ連れていってくれて、そこで置きざりにしてくれるのが「よい文学」である。したがって、さっき言ったような二流の人生小説に目ざめる人たちはまだしものこと、一流のおそろしい文学に触れて、そこで断崖絶壁へ連れてゆかれた人たちは、自分が同じような才能の力でそういう文学をつくれればまだしものこと、そんな力もなく努力もせずに、自分一人の力でその崖っぷちへ来たような錯覚に陥るのである」

長くなると著作権の問題があるのでここで引用を終わりにする。
一流の文学は人間に或る種のニヒリズムを植え付けます。そして徹底した合理主義を掲げて表の世界のあらゆる社交辞令が実は「裸の王様」であり、大嘘の世界であることを暴いてくれますが、文学から身に付けた思想は「借り物」であり、本物ではないという。
自分で勝ち取りに行く努力をすることで、そのプロセスで様々なものが身についてくるのだ。

英語学習も似ている。
英作文の模範解答を丸暗記したところで本番でそれを再現できるわけではない。借り物の知識は脆いのである。自分の手を実際に動かし、何度も書く練習をすることで「自分なりの型」が出来上がってくるのだ。ぜひ練習をする中で「型」を作り上げましょう。

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カテゴリー: books パーマリンク