「英語」を受験科目から外すべきか?

かつて「英語」を大学入試科目から外すべきだと主張した国会議員がいた。その名は平泉渉。平泉氏は「英語教育大論争」で英語が中高生にとって大きな負担になってることから、英語教育を根幹から変えるべきだとして、上智大学の渡部昇一教授と激論を交わした。現在、我々を取り巻く環境を考えると英語を入試から外すのはどう見ても悪手でしかないが、過去に起きた論争を知っておくことで英語を学ぶ意義について再確認できる。

平泉氏が提案した外国語教育改革案とは、概ね以下の通りである。

大学入試には外国語を課さない。
・義務教育である中学の課程においては、むしろ「世界の言語と文化」というごとき教科を設け、ひろくアジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカの言語と文化とについての基本的な「常識」を授ける。同時に、実用上の知識として、英語を現在の中学一年修了程度まで、外国語の一つの「常識」として教授する。(この程度の知識ですら、現在の高校卒業生の大部分は身につけるに至っていない。)
高校の外国語学習過程は厳格に志望者に対してのみ課するものとし、毎日少なくとも二時間以上の訓練と、毎年少なくとも一カ月にわたる完全集中訓練とを行う。
・外国語能力に関する全国規模の能力検定制度を実施し、「技能士」の称号を設ける。
・わが国の国際的地位、国情をかんがみ、わが国民の約五%が、外国語、主として英語の実際的能力をもつことがのぞましい。

簡単に言えば、英語は大学入試では課さず、希望者だけが自主的にやればいいという主張だ。国民全員が学ぶには負担が大きすぎるし、学び終わっても「話す」「書く」はおろか、「読む」「聞く」もままならないのでは多くの人にとって無益じゃないかと。

これについて渡部教授は「亡国案だ」として以下のように真っ向から反論する。

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上智大学教授 渡部昇一氏

大学入試から英語をはずす。なんという朗報であろう、と一番喜ぶのはその採点で春休みを犠牲にされている大学の英語教師である。英語をやらずに何で選ぶのか。数学で選ぶことは文・法・経の人にはまるで役立たない。では国語の古文か、と言えばこれもあまりよくない。地歴となると当たりはずれが大きすぎる、ということになる。

・・・

簡単に言えば受験英語の悪名はいかに高かろうと、それは他学科の能力との相関性がズバ抜けて高いのである。つまり受験英語ができる人間はたいてい他の学科もよくできるということなのだ。語学試験で高い点数を取った受験生は二次試験でも高い点を取り、語学がスレスレで通った学生の多くは二次試験の成績が悪く、多くは落ちるそうである(小川芳男氏談)。これは日本に限らずアメリカでも顕著に認められることである。

・・・

入試課目のうち、どれが大学における修学適正度をよく示すか、と言えば数学と英語がずば抜けているのだ。なぜかというと、この両課目は絶対に一夜漬けがきかず、長期にわたる根気のよい準備を必要とするからである。しかも応用問題が作りやすい。膨大な暗記力を必要とするが、いわゆる丸暗記でないところがよい。

・・・

ひとたび大学入試から一斉に英語を追放することに成功すれば、あとは日本の英語教育は倶梨加羅谷の平家の軍勢同様、一挙に追い落とされてしまうのだ。なぜならば、大学入試に全く関係のない課目を平泉案に従って一週十二時間もやろうという高校生はまずないからである。

これに対して平泉氏は以下のように反論する。

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参議院議員 平泉渉氏

外国語の習得とは所詮、巨大な暗記の上にのみ成り立つ。少なくとも数千を越す単語は、まず記憶しなければならぬ。そのような「暗記」というものを、強制と脅迫による方法で行ったとき、どういう結果になるかを、人間の心理に照らして考えてみる必要がある。ただでさえ、むつかしい英語を、このようにして、さらに「いやなもの」にするという無神経さは、どう解すべきであろうか。要はあれだけの「英語勉強」を全国民の子弟に真実において強制しながら、読めないのは当たり前というようなことでよいのか。単に読めないだけではなしに、外国語の征服などはとてもモノにならぬことだと、国民の大多数に思い込ませてしまうような、一生直らぬ後遺症を残すことになってはいないか。

ところで、この平泉案は「英語」というところに「数学」を入れても全く同じことになると渡部教授は指摘する。それに対して平泉氏は「わたくしは高等数学の「数Ⅱ」以上については、これを事実上必修にすることに、強い疑問をもっている。しかし、中学と高校の数Ⅰまでについては、必修で少しも差し支えないと思う。いくら私が外国語びいきであっても、数Ⅰまでの、純粋に「知的」な基礎訓練と、外国語のような、膨大な時間をかけて「技術」を習得しながら「知的訓練」が行われるものとを、国民の義務教育の課程として一緒に考えることはできない」と述べている。

どうやら平泉氏にとっては数Ⅰまでなら許容範囲のようである。数Ⅱ・B以上は義務である必要はないとは、「知的訓練」の定義に少々うるさすぎると感じる。そして数Ⅰまでの世界は知的訓練になるが、「読む」「聞く」「話す」「書く」という技術を習得しながら知的訓練をする外国語学習は数学とは別物であるとのこと。後述するが、英語をクルマの免許に捉えると、英語学習は「技能」と「学科」という2つの顔を持っている。平泉氏は「話す」「聞く」という「技能」に分類される英語は知的訓練にはならないと考えてるのかもしれない。「学科」に分類される「英文読解」「文法」「英作文」なら渡部教授が指摘するように知的訓練にはなるが、それでも先ずは膨大な暗記作業ありきで、多くの人がその時点で半ば投げ出してしまってる現実があるのだから、志のある者だけがやればいいのだと。

ところで、渡部教授が「英語を入試課目から外すなら、修学適正を測定する上で、他にもっといい課目はあるのか」という問いに対して平泉氏が一貫して沈黙してるのが気になる。そして、かつて「国家の品格」で藤原正彦氏が「英語は日本語とは根本的に構造の異なる言語なのだから、コミュニケーションの手段として別の方法を模索し、もっと国語をやって内面の充実を図るべきだ」と主張していたのを思い出す。平泉氏と藤原氏の意見は分からなくもないが、両氏は代替案を提示していない。この点において英語教育大論争は渡部教授に軍配が上がるのではなかろうか。もう一つ気になるのは、平泉氏は長期の視点にたって発言していないことである。議論が1974年であったことから難しいとは思うが、20年後に訪れる情報化社会を予見していない。そして文庫本で20年後(1995年)に再び巻末でコメントを出してるが、当時を懐かしがってるだけで情報化社会については言及していない。

ここで一つ話を整理しておきたい。藤原正彦氏のいう英語に変わるコミュニケーションの仕方とはなんだろうか。最近ではDeepL翻訳など、優れた翻訳サイトが出現してる。このサイトに日本文を入れればそこそこの精度で翻訳してくれる。しかし、「英語の思考法」で井上逸兵氏が述べてるように、AI時代においても英語特有のものの考え方、捉え方、認知の仕方を学んでおかないと、お互いに理解し合うのは難しい。英語という言語の核心はまず相手と「対等」の関係を築こうとすること。必要以上に感謝しすぎず、謝罪しすぎないように心がける。それに対し、日本語の核心は「謙遜」である。メールで挨拶文を書くときは感謝と謝罪の言葉が多く含まれている。それらを何も考えずにDeepL翻訳にぶち込んで英語に変換したら、実に奇妙な英文が出来上がるのだ。これでは内容はそこそこ理解できても、変な人に映ってしまい、信用を得られまい。文法レベルで言語の本質的な違いを理解しておく必要がある。

「英語の思考法」からいくつか例を挙げると、

英語で「どうかしましたか」というとき

What’s your problem?と尋ねるより、

What’s the problem?と尋ねる方がいいとされる。

yourと言ってしまえば、相手の領域に入り込みすぎていて、嫌がられるのだ。theにしておくことでそれを回避できる。

My English is very poor.「私の英語はひどいです」と謙遜するところを、英語では

I’m still learning English.とポジティブに捉える。謙遜すると相手は「そんなことないよ」とフォローする必要があるのでかえって迷惑になると向こうでは考えるのである。他には、

「あーびっくりした」を

I was surprised!としても「何に対して?」と思われるが、

You scared me!(You surprised me!)と人称代名詞ではっきりさせることで、誰が誰に対して驚いたのかが分かるようになる。これらを日本語で理屈で考えてても英語のこころを理解するのは難しい。特に、日本語ではほとんど使わない人称代名詞の存在を意識することは、英語話者がどのようなものの見方をしてるかが分かるようになる。これを日本語で「彼は」「彼女らは」などと人称代名詞を補って日本語で思考してても「欧米人は変わったものの捉え方をするなぁ」ぐらいにしか感じられないだろう。これでは英語独特のリズムがわからないのだ。

最後に渡部教授が英語を学ぶことのメリットについて解説してる箇所を紹介したい。

まったく違ったコンテクストに入るとものごとが全然別に見えてくることがあり、言葉の場合でも語脈が違えば違うほど、全く別の見地からモノを見るようになる。そしてそれ自体、知的価値がある。たとえば日本語に非常に似ている言葉があるとしますよ。日本ぐらいの大きい外国があると仮定しますよ。その国の言葉を習うというのは、これはあまり知的訓練の意味がない。

・・・

日本という島国の特質を考えなきゃいけない。たしか外山滋比古さんがどこかでいっていたと思うんですけれども、日本は放っておくと、どんどん酸性の土壌みたいになってゆく。たえずアルカリ性を意識して流し込まないと、本当にウルトラ・ナショナリズムになる恐れがある。その意味においても、まったく異質の文明、あるいはそれを担った言葉を教えることを試みることは、それなりに意味があるということです。

・・・

田舎に住む生徒たちに、これはお前たちにはいらないだろうから教えないということはいけないことだ。彼らが将来学問に志したり、あるいは都会に出てきたり、将来商社員になるかもしれない。そのときに、今の中学の文法でもやっておけばすぐ、くっつくんですよ。ところが二十歳ぐらいになって志を立てて、スクール・グラマーをやったって、これはなかなか大変です。そういう意味で教育の機会均等の根源的な意味においても、やる価値があるという意見なんですけどね。

やはり職業選択の幅を狭めてしまうという点で、英語を受験科目から外してしまうのはよくない。なによりネット社会の今となっては英語の重要性はますます高まっている。

 

蛇足だが、平泉氏は語学の達人であり、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語に秀でてたようである。東大卒の外交官で英語を使った試験で成功体験を得ておきながら、そのハシゴを外そうとするのは少し不自然な気がする。数学も数Ⅰまではやる意義があるが、それ以降は意義がないかのような主張も、やけに青少年に優しい。英語は国民の約5%だけが出来ればいい、残り95%は中1レベルの英語の常識があればいいというのは、「情報の独占」という考えでいけば支配層と被支配層に分けようとしているように見える。また、政治家というポジションからすると、国民受けする案(大多数は英語を諦めてるだろうから)を提示した方が選挙で票に繋がるのではないか?私の考えすぎかもしれないが。

 

閑話休題。

 

かつて大和言葉が急速に失われているとして漢字不要論が叫ばれた時代がある。志賀直哉は漢字の多い日本語では国民の識字に影響が出るのでフランス語を公用語にすべきだと主張したとか。初代文部大臣の森有礼は日本語を廃止して英語を公用語にすべきだと提案した。欧米に追いつき、思想を取り入れるには英語が必要であると。これでは大昔の日本人の思想にアクセス出来なくなるのでいい案だとは思わないが。

最近では共通テストで古典は不要ではないかとの議論も沸き起こっている。それより「情報」や「簿記会計」などが大事ではないかと。いつの時代も次の世代に何を残すべきか、様々な議論が行われている。私の見立てでは現在授業で扱われているもので不要な教科はない(ただ、古文漢文の細かすぎる品詞分解は確かに不要ではないかと思うことがある。それより内容理解に努めるべきである)。そして一部の理系の先生は「高校で英語ばっかりやってると知性が失われる。国語と数学をもっとやるべきだ」と主張してるが、渡部教授の意見に耳を傾けるべきである。

何を残し、何を諦めるか、その時代の権力者によって勝手に変更されそうになっている歴史を見るにつれ、「教育」が何度も危機に見舞われていることに気づく。ある言語、ある学科に出会う可能性を大幅に小さくしてしまうと、その影響力はのちのち甚大なものになる。強制力を失うと今後の人生で出会える可能性が非常に小さくなるのだ。それはちょうど若者が戦争で命を落とすと、この世から姿を消すだけでなく、生まれてくるはずだった子孫代々全ての可能性が消えるのに似ている。外国語も一人の政治家の思いつきで簡単に奪っていいものではないのだ。

 

 

最後に①入試科目としての英語と、その②教育の成果(費用対効果)について私なりの考えを述べてみたい。

 

まずは①について。

 

先程も述べたが、英語はクルマの免許のように「技能」と「学科」の二つの側面を持っている。「技能」がすなわち英会話であり、「学科」が英文解釈であったり英作文だったり、語彙や文法学習であろう。他教科の先生が言う「英語ばかりやっていると知性が失われる」というのは「技能」と「学科」をごちゃまぜにした発想である。「技能」に分類される挨拶程度の英会話ばかりやっていれば知性は磨かれないが、少なくとも上記の「学科」の面では日本語とは異なる言語体系を学ぶことで知性は磨かれる。ここをしっかりと区別しておかないと本質を見誤る。

では技能である会話をやる時間は無駄かというと、学校でスピーキングを練習する時間は決して無駄ではない。読解力の底上げをしてくれる。英文を黙読してるときでも、「頭の中で英文の音が鳴っている状態」になるのだ。英文の意味を音で素早く理解できるようになるのだから、もっと入り組んだ高度な知的訓練に向いた英文とも向き合えるようになる。もちろん、会話そのものができれば将来海外の人達と仕事する時も大きな強みになる。

ところで最近まで大学受験で「技能」としての英会話(スピーキング)を測定しようとする流れがあった。スピーキングを測定する場合、評価する側の主観がまじるので1点を争うような入試(東大の場合は小数点刻み)で使うには良くない。そもそも必要だからといって、なんでも受験科目に入れるのは18歳に無駄に負担をかけることになる。経済的に苦しい家庭にとっても大きな負担だ。現代は知識の面で一人前の大人に仕上がるには30歳前後までかかる時代なのだ。それでも何でも18歳の入学試験に求めるのは、今でも「入省年次」「入社年次」がモノを言うからであろう。18歳の時のどうであったかで評価されてきた人達は、その評価基準を変えたくないのだ。だから18歳の時点で「形式的に全て揃えた人物像」を作りたがるのである。大学入試でスピーキングを課して「すでに測定したこと」にしておけば、入社してからTOEICのスピーキング・ライティング試験を全社員が受ける流れにはならない。スピーキングが苦手な上の世代は逃げ切れるのだ。

 

次に②について。

 

中高と英語に膨大な時間とお金を投入してる割に成果が一向に上がっていないと、平泉氏が主張してるが、それもそのはず。既に小学校から英語の勉強が始まっている2017年、2018年の学習指導要領においても、学校での英語の授業時間は、

小学校で157時間、

中学校で350時間、

高校で500時間。

小中高だけで約1000時間しかない仮に中高と塾で毎週2時間英語を学んだとして、6年間で624時間。家での自習が塾と同じくらいだとしてさらに624時間を追加する。これらを足すと、小中高で2248時間

一方、ネイティブは朝から晩まで英語に触れている。1日15時間英語に触れると、1年で5475時間(この時点で日本の小中高トータルの学習時間の2倍以上だ)。

私の感覚では最低1万時間は英語を勉強しないとビジネスで使い物にならない。大学に入ってから、そして社会人になってから、毎日最低2時間は英語学習をしないと現場では通用しない。大学で毎日2時間やれば、4年間で2920時間。社会人になってからも10年間これを継続すれば7300時間。

小中高の2248時間に、

大学の2920時間に、

社会人の7300時間で、

トータル1万時間を優に越える。プロになるには最低でも1万時間は要るとよく言われる。もっとも、私の中高大の英語の授業は塾を除いて9割以上内職だったので学校で何が行われてたのかあまり記憶にないが。。。

結局のところ、英語ができる人とそうでない人の違いは、授業外での自発的な学習時間の差なのである。学校の授業は「きっかけ」でしかなく、ここを少し増やしても効果はあまりない。卒業後の「継続」がすべてである。確かに国民全員が英語学習で1万時間を超えることはないが、それでも渡部教授が指摘するように、英語は修学適正度を確認するのにズバ抜けて適していること、知的訓練の場として活用できること、さらには職業選択の幅を広げてくれる意味でも、英語学習は全員参加の教科であるべきなのだ。

 

PEACE  OUT.

 

 

 

 

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