受かる人・落ちる人―その境界線

ツイートの長さと論理性で、その人の頭の中身が大体わかる。というのも「ラーメン食った。うまかった」みたいなツイートで埋め尽くされている人は軒並み不合格になっている。英作でも文章の正確さはともかく、書く語数が多い人の方が比較的受かっている。文が短いのは思考が浅い証拠で日常でもハンデになる。

以前これをツイートしたらかなり炎上したが、私の考えは変わらない。なぜ炎上したか?昨今の少子化社会では塾も予備校もいかに人気を得るかに関心があり、本当のことを言わなくなってきているからだ。当然ながら短い文章が常にダメかと言えばそうでもなく、メールで機密性の高い情報を扱うがゆえに文をわざと短くしているとか、詩を書くとか、そういう例外は除く。


受かる人と落ちる人の特徴はいくつかある(もちろんどこに受かるかにもよるが、有名どころとしておく)。

いろんな学習塾で高校生中心に教えたが、受かる人、すなわち成績のいい人ほど、
1.よく笑う、
2.雑談を面白いと思う、
3.精神的に自立している、
4.長めの文章で自分の意見をしっかり書ける、
5.最初から最後まで「何か」に霞がかかっている、
という特徴がある。
上記の1.2.3.は実際に会ってみないとわからないが、4.に関してはアンケートとか自由英作とか小論文という形で試すことはできる。5.は繊細な話なので詳細は省く。
ちょっとした文章を書かせればその人に語彙力はあるか、論理的に考えることはできるか、細かいことに気づくか、何に関心があるか、綴りの間違いは多いか、字はきれいか、やる気はあるか、実に様々な情報が読みとれる。もし文が短いとなると、それは思考が浅く、自分の意見をうまく表現するためのボキャブラリーを持ち合わせていないので、頭の中が砂漠と化していて、何も疑問に思わない状態になっているのだ。疑問に思ったとしてもプツプツと泡のようにその場で消えていく。自分の頭を使ってモノを考えるには、道具としての語彙力、そしてそれを使って文章を組み立てる力がいるのだ。アメリカでは難しい語彙ばかり試すGREなどがあるが、それは語彙力と社会的成功、あるいは知的能力に相関関係があることが知られているからである。

そもそも日本では教育の話題がやたらと繊細なものとして扱われるが、それは日本人が無宗教であることと関係しているからではなかろうか。これといった宗教を普段意識することがないから、己のアイデンティティの形成の場、すなわち心の拠り所を出た学校や働いている職場に求める。マズローでいう「所属の欲求」である。自分はここに関係している人間ですと。そしてその所属の場を決定する要因が多くの人にとっては教育であると。中世ヨーロッパの宗教戦争が日本では受験・教育戦争という形で出現している。
さらには所属の場として以外に、自分自身の稼ぎにも直結するケースが少なくない。その結果、教育はどんどん繊細な話となっていく。性格や能力が関係するのだが触れてはならないタブーと化している。その結果、誰も「王様、あなた裸ですよ」と指摘できなくなる。そして王様はどんどん迷走するようになる。

 

ところで、「裸の王様」を見事に指摘しているものが昔の本にある。

みんな自分がわからない (新潮文庫)

「みんな自分がわからない」p142から引用してみる。

「教師ビートたけし」の項目にあるたけしの教育論である。

もし一人の凄い奴を出したいと考えるなら、後の何万人かには下がってもらわなきゃいけない。それでいいんだよ。
下がる方だって、別にちゃんとした仕事があって、それなりの社会生活ができるんだからいいじゃないか。みんなそろって前に出ようというのがおかしいんだ。大学教育なんて、千人力、万人力の奴を一人創れれば、それで充分だろう。
うちのおふくろなんか、できないことをやるんじゃないとか、おまえは駄目なんだからと、頭ごなしに何もさせてくれなかった。野球選手になりたいとかいったら、そんなに小さくてなれるわけないよ、バカヤロウ、それで終わりなんだから。これからの子どもたちはいろんな可能性を秘めているなんていう教師が一番いけないよ。嘘をつくなって。秘めてないよ。だいたいてめえが秘めてないんだもの。オイラが教師だったら、まずこう言うよ。「おまえたちはカボチャなんだ」って。たいした者にはなれっこないんだから、しっかりソロバンだけは覚えとけってね。

学生時代に簿記をちょっと齧った程度の自分には耳の痛い話だが、人には能力差があり、向き不向きがあることを教えてくれる。

「解説」を書いてるのが養老孟司で、「ビートたけしはどこか辛そうだ」と評してるギャップがまた面白いが、この本が書かれた平成一桁台はSNSもスマホもネットもない時代だったので炎上という形で対応する必要がないからか、直球勝負でしびれる内容が多い。一言でいえば、「自分の能力を見極めろ」ということだ。それをスパルタンな形で表現している。ただ、教育学者の齋藤孝が言うには、直球勝負のようでいて、よくよく聞いていると悪口を言える相手(自分の子分である芸人など)のことしか言ってなくて、その場では誰も傷つかないように配慮されているのだとか。木造住宅の多い下町をフェラーリで全速力で無傷のまま走り抜けて行くような非常に高度な技術なのだ。

彼を知り己を知れば百戦殆うからず。
宮本武蔵は五輪書で「優れた剣客であるための資質は、相手の力量を的確に見極めることだ」と述べている。自分より強い者に向かって行ったらそこで終わる。自分の能力はどれほどのものなのか、そして敵の強さはどの程度か。一年で倒せるのか。努力だけでなく眼力も必要なのだ。
ところが、受験生の置かれている状況と敵の強さを正しく見極める力のない人がいかに多いかは、4年前に行われたたった100日で青学に受かろうとした芸能人の企画からもわかる。試験が1か月後に迫っているなか、200点満点のセンター英語で8点しか取れない人が受かるわけがない。それでも、「まだわからない」「彼なら大丈夫だ」という声が多かった。同業者からも「受かる」という声があったことには驚いた。彼の英語授業を担当している講師も本当のことをなかなか言おうとしなかった。人気にあやかりたいだけかもしれないが。
昨今のネット上に溢れる「優しい言葉」と「大人のずるさ」は紙一重であることを心のどこかにとどめておきたい。勝負を挑むにも倒せない相手に何年も挑んではいけない。それより、ちょっと道を変えてみる、方式を変えてみるだけで打開策が生まれることが多いのだ。国立医学部一本という道もあるかもしれないが、英検準1級取ったことが私立医で優位に戦いを進めることができ、それがきっかけで連勝できたなんて話はいくらでもある。自身を客観視すること、そして言語能力をブラッシュアップすること、この2点である。

 

 

PEACE OUT.

 

 

 

 

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