國弘正雄氏の「落ちこぼれの英語修行」(絶版)は英語学習本の中でも異彩を放つ。氏は道元の只管打座ならぬ只管朗読(ひたすら座って音読)、只管筆写(ひたすら座って筆写)を提唱したことで有名だが、この本の特徴はなんといっても、学習者が一度は疑問に思う「こんな地味な作業を続けて意味はあるのか?」という問いに対し、達人が自らの経験をもとに「あります」と背中を押してくれるところにある。
今回は人々が見落としがちな「英語を体に沁みこませる訓練」「英文を盗む視点で読む英借文的読書のすすめ」「文学の大切さ」について本書から幾つか引用してみた。達人は基礎訓練、反復訓練の重要性をしつこく説く。以下は音読と筆写について。
中一から中三まで、教科書の各レッスンを少なくとも500回は音読しました。そしてごくごくたまに貴重品のザラ紙が一枚でも手に入ると、英文を手で写してみることもやりました。まず表、次に裏に黒鉛筆で書き、今度はその上に赤鉛筆で書くという風に、一枚を四枚に使ったものです。手で写すというのは、英語を身体に叩き込む、つまり難しくいうと内在化する上にとても役に立つ。これはタイプライターの場合も同じことで、ミスター同時通訳の異名をとる村松増美君も、タイプライターを叩くことがどれほど英語を身体の中に定着させる上で有益だったかを、彼の本の中で書いています。とにかく、ひたすら音読し、ひたすら手で書くことをやったんです。それが只管朗読、只管筆写と呼んでいるやり方で、その有効性については、村松君や鳥飼玖美子さんも保証してくれているほか、いくらでも証人台に立ってくれる人はいるんです。 |
戦後、物資が乏しい時代の方が人々はハングリー精神があったのかもしれない。本書を読み進めていくと、氏の英語に対する並々ならぬ貪欲さが伝わってくる。が、氏が言うには便利な時代(本書が書かれたのは1981年だが)には英語学習の素材に事欠くことはないが、学習者は徐々にハングリーではなくなってきているとのこと。不便で貧しい時代の方が人々は危機感から動くのかもしれない。効果的な英語学習は「小学校から無理に始めること」ではなく、一度ハングリーにさせることじゃなかろうか。
ところで伊藤和夫先生が推奨する「短文暗記」について氏は同意見かというと、以下のとおり述べている。
結論から言うなら、暗記を目指す必要はありません。繰り返し音読や筆写した結果、自然に口をついて英文が出てくる、というのなら大いに結構です。でも暗記してやろうという助平根性は却って邪魔になります。むしろ結果として、もし覚えられたらめっけものくらいの軽い気分で、とにかく音読することです。あくまで結果としての暗記です。 |
暗記は却って邪魔になるとのこと。しかし500回も音読すれば結果的にほとんど暗記していたのではないだろうか。通常は50回もやれば満足するが、達人はゼロの数が一つ多い。
次は自分で文章を書くときは、他人が書いた英文を盗むような眼で読む「英借文のすすめ」について。
人の書いたものを読んでいて、表現や言い回しで、「これは使えるな。これは見事だな」と思うようなものがあると、その表現なり、ことばなりを、できるだけ早い機会に実際に使っちゃうんです。よそからいただいてきたものをサアッと使う。二、三回使っていると、自分のものになっていきますよ。何か、自分の体の一部に内在化されていくんです。 |
最後は文学の重要性について。
どうやら中国では小説は軽蔑された文章のようで、君子人は歴史を読むべきだ、思想を読むべきだ、聖教を読むべきだ、となっているらしい。日本もこの影響を受けているからか、大学生が小説を読んでいると「それじゃ就職できないぞ」と言われるような風潮は確かにある。氏も当初は「小説?ふん、男と女がいて、くっついただの離れただの、所詮はそんなことじゃないか。人生の一大事じゃない」と思っていたようだ。しかし徐々に考えが以下のように変わった。
ある言語の真髄、本当に深くて、しかも命のうずきを感じさせるようなことばというのは、やっぱり文学です。これは間違いない。これを完全に素通りして、そこらの時事的な文章とか、事実を事実として伝えるだけの報告文のたぐいばかり読んでいたら、絶対にその言語(英語)には深まれないと思いますね。一つ一つのことばを使うのに、文学者がどれほど心を砕いていることか。深い意味を込めているか。そういう、人が骨を刻み込むようにして作り上げた作品に触れることが、ことばに本当に深まる所以だと思います。 |
英語学習は「その方法は役に立つか」と仲間内で話していても始まらない。達人の経験談を読めばそこに苦心した模範解答が載っているのである。氏の「英語の話しかた」と合わせて読みたい。
PEACE OUT.