座右の徒然草

ビートたけし曰く、

勉強するから、何をしたいか分かる。
勉強しないから、何をしたいかわからない。

慶應の入試は面白いもので、試験に国語がない。あったとしても小論文なので「古典は無視していい」という大学側からのメッセージだと思っていた。学問のススメにも「古典は学校の先生が言うほど尊敬できる教科には見えない」と福澤諭吉が述べているので私の人生には無縁のものだと切り捨てていた。だが、違っていた。

大学1年のころ、塾生新聞というのを校内で見かけ、パラパラとめくっていたら面白い記事に出会った。当時の安西塾長がインタビュー形式で塾生から「何を学んだらいいですか」との問いにこう答えていた。「あのね、迷ったら古典を読んでみるんだよ」と。入試に古典がないのに塾長が古典を勧めるのも面白いなと思ったものだった。

そこで私は徒然草を手にしてみた。原文はサッパリだったが、現代語訳を読んでみると大事なことがたくさん書かれてあった。一言でいえば、「先人達の失敗談から学べ」という内容だ。現在の我々が悩んでいることは大昔の人々も同じように悩んでいたわけで、それに対する模範解答らしきものを人生の達人が提示してくれているのである。数百年という時の試練に耐えたのだから、やはり普遍的真理なのだろう。

次の一節は齋藤孝先生が訳した「使える!『徒然草』」からの引用である。

「引用開始」

或る人が自分の子どもを法師にした上で、「説教で生計を立てるように」と言った。すると、子供は親の言いつけ通りに、説教師になるために、あれこれと稽古をした。まず、輿や牛車などの車を持たないので、法事などに招待されたときに、馬をよこされてもいいようにと乗馬の稽古をした。次に、法事の後の酒席などで芸がないのは困ると、早歌を習った。乗馬と早歌がかなり上達したので、さらに一生懸命に稽古を重ねるうちに、肝心な説教を習う暇がなく年をとってしまった。

「引用終了」

若い間はあらゆる分野で一人前になって大成したいと志す人が多いが、人生は先が長いとのんきに構えていると目の前の雑事に追われて年月を過ごしてしまう。そして何一つ成し遂げることなく年をとってしまう。つまり、第一のことを決めたら、それ以外のことは捨てて、ただ一つのことに励まなければならない。碁にたとえれば、三つの石を捨てて十の石を拾うのは容易いが、十の石を捨てて十一の石を活かす手を選ぶのは難しいとのこと。十を捨てるのが惜しいと感じるのだ。これを捨てずに十一も取ろうとすると結局両方失ってしまう。

何をしたいかわからなかったらまずは古典を読んでみる。そしていろいろ試してみる。これというのを決めたら、他のものに未練を持たずにそれだけを追及する。そのような姿勢でいたほうが物事はうまく進むのではないだろうか。
「学生時代に何を学ぶべきですか」と、たまたま出会った目の前の友人に聞くべきではないと私は思う。病気にかかったら医者に診てもらうように、人生で迷いが生じたら時の試練に耐えた本に相談すべきなのだ。古典こそ最高のアドバイザーになってくれるだろう。人生の迷いの森に入り込んでしまったら、古典という方位磁針を手にしながら進むべき道を決めてみよう。

使える!『徒然草』 (PHP新書)

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